中世の偉人たちの足跡がいっぱい残る大阪・堺のまち

大阪湾に面している大阪の堺は、古代から中世にかけて大和や日本の玄関だったのですね。
堺にある百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)には、二十数基の前方後円墳を含む数十の古墳があります。
大山(だいせん)古墳・履仲陵古墳・反正陵古墳など、5世紀に属する巨大古墳が多いです。
お隣の羽曳野市藤井寺市にある古市墳群(ふるいちこふんぐん)と一緒に世界文化遺産登録をめざしています。

もっとも堺が華やかだった時は、宣教師フランシスコ・ザビエルルイス・フロイスが鉄砲をもってきたいわゆる戦国時代とよばれる時だったでしょうか。平安時代は小さな漁村だった堺ですが、中世には極東の港「堺」としてヨーロッパの歴史にも登場する町になったのです。
残念なことに、大坂夏の陣で鉄砲が徳川にわたるのを恐れた豊臣方によって町は焼かれてしまいます。
さらに、1945年 の空襲で市街の大半が焼けてしまい、華やかなりし頃の文化財は少ないと言われています。
それでも、でかけてみると あちらこちらに中世の偉人の足跡が残っていて、歴史と対面する楽しさを感じる町です。歩けば棒にあたるように 町角に歴史上の人物が登場してくる発見の町でもありました。
 まずみたかったのが樹齢1100余年といわれる天然記念物の大蘇鉄でした。廣普山妙國寺の霊木の大蘇鉄が庭に龍のようにひろがっていました。
妙國寺には蘇鉄枯山水の庭があり、天然記念物の大蘇鉄の外にも大きな蘇鉄が茂っていて見ごたえがある庭でした。
織田信長が堺に来た時の宿は妙國寺(無本寺だったことから)でした。
利休などの接待を受けながら この蘇鉄枯山水を眺めたと伝わっています。
千利休寄贈の手水鉢と灯籠が残っています。
織田信長大蘇鉄が欲しくなって安土城に移植しましたが、蘇鉄の樹の中が空洞であることから 夜になると音が響いたそうです。それは大蘇鉄が泣いているように感じられて、悩まされて、煩わしくなって、妙國寺に返してしまったという謂れが伝わっています。
残念なことに、ガラスの扉からでも写真撮影は禁止ということでした。
今回出かけて、徳川家康と堺のまちとの繋がりの深さを知りました。
家康も妙國寺の蘇鉄枯山水が気に入っていたようです。家康に仕えた小堀遠州が蘇鉄枯山水の隣に家康のために駿府の国を再現した庭をつくっていました。
妙國寺には古田織部小堀遠州織田信長徳川家康、左甚五郎などの足跡が残っていました。
家康が織田信長の招きで堺を訪れているとき(妙國寺滞在中)本能寺の変が勃発し、命の危険を察し、伊賀越えして三河に逃げ帰ったと伝わっています。
 

妙國寺






幕末の時、堺は土佐藩が管轄していました。そのときフランス水兵と土佐藩士が衝突。幕府没落と明治新政府樹立の狭間でおきた「堺事件」。
フランス軍との争いをさけたかった新政府は賠償金と事件に関わったもの20人の切腹と言うことでかたをつけます。妙國寺には切腹した土佐藩士の遺品が残っていました。


















千利休は、戦国時代から安土桃山時代にかけての商人であり、茶人でした。
千利休は、今井宗久、津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられていました。
堺の商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれです。早くより茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、さらに武野紹鴎に師事します。堺の南宗寺に参禅していました。
織田信長が堺を直轄地としたときに茶頭として雇われ、本能寺の変のあとは 豊臣秀吉に仕えますが、秀吉の逆鱗に触れ堺の家に蟄居したあと、自害します。利休の屋敷は焼かれ、家族親族は堺を追われることになります。利休の屋敷跡と伝えられる場所が保護されていますが、利休が武野紹鴎と参禅した南宋寺には利休と千家一門の墓がありました。
南宋寺は三好長慶が建立した寺で、臨済宗大徳寺派の寺です。三好長慶の妹は利休の最初の妻です。秀吉によって堺の町から消されてしまった利休の足跡は南宋寺にはいくつか残っていました。

南宋寺には茶匠のお墓が並んでいます





千家一門の墓

中央は利休の塔、右側は不審庵(表千家)、左側は今日庵裏千家)、手前右は官休庵武者小路千家)の塔




津田家、三好家の墓







茶湯の匠たちが眠る墓の周りには侘びすけの花がさいていました。







古田織部のつくった灯籠と織部好みの枯山水の庭





利休好みの茶室










南宋寺には武野紹鴎の墓もあり、茶匠の所縁の寺ですが、徳川家康の墓もあり、東照宮拝殿もありました。
徳川家康の墓には屋根もありました。





東照宮の唐門





仏殿天井の「八方睨みの龍」





甘露門(山門)