幻想的な物語を紡ぐヒメボタル

 私が子供のころ過ごした田舎の初夏は 端午の節句が終わると田植えが始まり、田んぼが緑に染まる頃には「タニシとり」「ほたる狩り」の楽しみが待っていました。菜種がらでつくった箒をもって「ほたる狩り」に出かけたものでした。ほたるはゲンジボタルヘイケボタルの2種でした。持ち帰って蚊帳の中に放して 光を眺めながら眠りにつくのですが、ワクワクしながらいつの間にか眠ってしまいました。翌朝、死んだホタルとまだ生きているホタルを庭に放すときには後ろめたい気持ちになりましたが、すぐに忘れて また夜になると菜種がらをもって出かけたものでした。
中学、高校になると いつの間にかホタルを忘れてしまいました。私の中にホタルがもどってきたのは大学卒業後、大阪豊中市に就職してからのことでした。当時阪大生だった弟は石橋に下宿していました。弟の下宿先の近くに蛍が飛ぶところがあるということで出かけたのが「待兼山」と呼ばれる高台にある森でした。それは子供の時にみたホタルの飛ぶ光景とは違っていました。地面が光に染まっていました。竹藪から光が湧くのです。「竹取物語」の世界とはこのような世界ではなかったのかと思いました。
 それから私は結婚して長女が生まれ、日常の世界に埋没して暮らしていくうちに また長い期間ホタルのことを忘れていました。あるとき突然、「待兼山のホタルがいなくなる」という噂が私の耳にも届きました。 その時になって、待兼山が「私有地」であったこと、 豊中市待兼山を 「市街化区域=市街化を促進する区域」に指定していたことを知りました。里山とヒメボタルを何とかして守ろうとする人たちのお話を聞きました。忘れていた「ホタル」の世界が戻ってきました。
 そんな時に 私は生駒西麓に越してきました。偶然にも家の近くにホタルが飛んでいたのです。そしてその「ホタルの飛ぶ川」周辺が下水道整備工事により改修されることを知りました。川の石組みや周辺の木々など自然を守るために、ホタルの棲む環境を守るために何かをしたいと思いました。「ホタルの川づくり検討会」ができ、地域の人たちや市の下水道課人たち、専門家の人たちが集まって勉強することになりました。私はホタルに取り付かれたかのように夢中で動き回りました。各地のホタルを見にでかけました。何度かヒメボタルも見ましたが、ゲンジボタルヘイケボタルの一筆書きの光跡に胸をときめかしていました。それはそれで美しい光景でしたが、「待兼山」の光に染まるヒメボタルの光景をもう一度みたいという気持ちもくすぶっていたようでした。
 今年やっと「待兼山」に負けない光の絨毯を見ることができました。半世紀ぶりのことでした。  あの時の弟は亡くなってもういませんが、50年ぶりにやっとヒメボタルの絨毯に出会えました。長い長い50年でした。