聖武天皇所縁の東大寺は国宝の宝庫です
「なぞなぞの旅」は聖武天皇の総本山東大寺につきました。
聖武天皇の時代、疫病や争乱によって世の中が乱れ、聖武天皇は仏教の力によって国を平和にしようと、741年に国分寺建立の詔を出し、全国に国分寺と国分尼寺を建てさせますが、その総本山が東大寺です。
6月から始まった「なぞなぞの旅」は賀茂→鴨→山城→瓶原→恭仁京→聖武天皇・・・とつながり、東大寺にたどり着きました。
「なぞなぞの旅(5)」で瓶原(みかのはら)を訪ねました。そこは聖武天皇の都でした。恭仁京(くにきょう)跡があり、聖武天皇所縁の多くの寺がありました。
聖武天皇の新しい都「恭仁宮」と「当尾の里」 をみてください。
聖武天皇は4年弱の「恭仁京」から743〜4年には都を紫香楽宮(信楽市)と難波宮(大坂市)に移します。紫香楽宮では743年『盧遮那大仏造立の詔』を発して、東大寺大仏さんが造られることになったそうです。そして745年造りかけの大仏さんと共に、再び平城京に戻ることになったそうです。
南大門の両側には 鎌倉時代初頭に運慶や快慶ら仏師たちによってわずか69日間で造像されたといわれている国宝・金剛力士立像が立っています。迫力がある力士像に圧倒されます。
1180年、平重衝による南都焼き打ちがあり、そのあと東大寺再建されるときに南大門に納めるようにと とくに念願して造らせたものが金剛力士像だそうです。鎌倉時代初頭の建仁3年(1203)に運慶や快慶ら仏師たちによってわずか、69日間で造像されたといわれています。昭和63年から平成5年にかけての修理の際、2体の金剛力士像の躰内から重源上人や仏師たちの名前が記された『宝篋印陀羅尼経』など、経巻や文書、それにおびただしい墨書銘が発見されました。
運慶・快慶らによる金剛力塑像などの彫刻はイタリアのミケランジェロなどとも比較され、運慶・快慶が活躍した鎌倉時代は日本のルネッサンスともよばれます。ミケランジェロの「ダビデ」像より300年も前に運慶や快慶の優れた作品があるということ、今見てもすばらしい作品であることなど驚異です。