聖徳太子戦勝の寺「大聖勝軍寺」

物部守屋の墓のすぐ近くに「大聖勝軍寺」があります。もともと守屋の別宅あとに聖徳太子が寺を建てたといわれています。
正式には椋樹山大聖勝軍寺(りょうじゅざんたいせいしょうぐんじ)という「下の太子」の名で親しまれている太子巡礼寺です。
物部守屋蘇我氏聖徳太子連合軍の戦いは守屋が優勢で、聖徳太子の軍は三度退却したそうです。以前このブログで紹介した信貴山に退却した聖徳太子毘沙門天に祈ったそうです。そしてこの戦いに勝ったあかつきには四天王寺を建立すると誓ったと言われています。難波の高台に日本仏教最初の四天王寺を建立し、この渋川の土地に勝軍寺を創建して、太子像と四天王像を安置したといわれています。
この大聖勝軍寺の門前に四天王寺像がありました。






左・境内の中心にある本堂「太子殿」は 守屋との戦い後、太子は仏法の「和の精神」を後世に伝えるため、太子堂を建立したそうです。 右・毘沙門堂 







当山の山号の由来の「神妙椋樹」の椋の木です。聖徳太子の軍勢は守屋の軍勢の前に3度敗退、大軍に包囲され絶体絶命の窮地に陥った時、椋の大木が真っ二つに割れ、太子はその幹の空洞に身を潜め、九死に一生得たといわれ、椋の木の下に祠が祀ってあります。