高槻城址公園

8月15日 高槻から京都の亀岡へつづく攝津峡を通ってお墓参りにでかけました。
お墓が大阪の茶臼山のお寺から高槻にうつって 10年以上です。毎年お参りしているのですから よく知った道のはずを間違えて車を止めたところが高槻城跡公園でした。
まさか 高山右近に導かれてきたのではないと思いますが、お墓参りするたび、高山右近のことが気になっていたので、この偶然は嬉しかったです。
キリシタン大名の右近はキリシタン追放令を受けて62歳のときに長崎からマニラに送られてなくなったそうですが、ときどき目にする物語の中の右近、歴史の中の右近に関心をもっていました。

高槻城は昭和50年に本丸石垣の基礎部分を発掘したそうです。しかし、今でも遺構が地中に埋もれているということです。
公園があるのは城の三の丸にあたるところだそうです。



高槻城の歴史は南北朝時代の入江春則の居館に始まり、戦国時代を通じて拡張され、元和3年(1617)徳川幕府は西国監視の重要拠点として修築し、上の絵図のようなの近代城郭の姿を整えたそうです。明治7年(1874)、石垣石を鉄道工事に使用するために高槻城は壊されたそうです。
高槻城といえば高山右近とつながるのですが、戦国時代からの歴史の中で右近が高槻城にいたのは15年、城主になってからでも12年という短い間だったらしいです。


公園内の高山右近の像にある十字架の剣



左下の「重出」は右近のクリスチャンネーム「ジュスト」の漢字です











以後よく広まるキリスト教の1549年にフランシスコ・ザビエルによって日本に伝えられたキリスト教ですが、異国に関心の深かった織田信長は好意的であったようで、貿易の有利ということもあって洗礼を受けた大名も多く、いわゆる「キリシタン大名」の名前の中には石田三成の名前や織田信長の子や兄弟もありました。

豊臣秀吉も信長の政策を継承し、南蛮貿易に積極的であったため 宣教師に対して非常に寛大であったそうですが、サン・フェリペ号事件のあと、日本で最初の処刑を長崎でしています。(日本二十六聖人の殉教)

徳川家康も初めのうちはキリスト教宣教を黙認していたそうですが、1639年に寛永鎖国令を出すことになります。

キリシタン禁教令が秀吉によって施行されたときに棄教する大名も多かったはずですが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選んだそうです。その後 前田利家に招かれて加賀で暮らしていたときに 右近の築城法の知識が役立ったとありました。
茶道を究め、千利休の七高弟(利休七哲)の一人であり、魅力的な人物としてとりあげている物語もあるのですが、織田信長の時代、たちまわりがうまい人物であったという記述もありました。その記述にしても よく読んでみると 右近の筋を通そうとした生き方みたいなものを感じます。
荒木村重の反乱」で、村重と信長の間にあって悩んだすえ、右近は城主を辞し、財産も地位も家族もすべてをすてて紙衣一枚で城を出て、信長の前に立ったそうです。結果として家族や家臣はじめ、村重側に出していた人質もすべて助かり、荒木勢の敗北の大きな要因となったそうです。そのあとの信長の処置は 右近は再び高槻城主としての地位を安堵された上に、2万石から4万石に加増される異例の措けたとありました。

加賀で厚遇されていたにもかかわらず 国外追放を選んだ右近は マニラにつくと病気になりすぐになくなったそうです。 当時の62歳といえばかなりの高齢です。長い船旅ですから苦しい旅でもあったのでしょう。

フランシスコ・ザビエルは当時の日本人を「優秀な国民」と褒めています。日本は未開な地ではなかったようです。日本人は文化的な人間だったようです。それでも 日本キリスト教史を読んでみて 驚いたことがあります。当時 日本人を南蛮人に売り渡す「奴隷貿易」があったのです。秀吉の出したバテレン追放令に「日本人を南蛮人に売り渡すことを禁止する」とありました。