『生駒七谷の水車』


車谷の水車
下谷の水車
辻子谷の水車
額田谷の水車
豊浦谷の水車
客坊谷の水車
鳴川谷の水車

中でも一番水車がたくさんあったのが辻子谷だったそうです。

「荻田昭次氏『東大阪研究』2000.7より抜粋」

辻子谷の水車
 生駒七谷のうちで最も古く起こり、最も水車稼ぎが盛んであった。
この地に水車稼ぎが始められたのは「寛永年間(1624〜44)に辻子谷の後藤久右衛門が音川の渓流を利用して水車を興し、その子七右衛門が胡粉を製造したのにはじまる
(中澄安蔵氏<生駒山西麓の水車>による」となっている。
枚岡市史」巻2には「七右衛門の代というから17世紀後半の元禄の頃と見てよい」
と述べている。
 江戸時代の後期、辻子谷の水車数について、文政4年(1821)御奉行所にあてた資料がある(石切町岩崎氏文書)。
それによると水車数11輛。11輛にはそれぞれ創設年次の記述があり、最も古いものが正徳元年(1711)3輌、ついで享保7年(1722)1輛、享保15年(1730)1輌、元文3年(1738)3輌、延享4年(1747)2輌、不明1輛となっている。

 業種は漢方薬の薬種細末が多数で、昭和11年和田氏の調査によると、当時稼働していた34輛のうち29輌が薬種細末であり、あとは胡粉マンガン・絞油となっている。