昨年は大和川付け替え300周年の記念行事がたくさんありました。

黄色い川が付け替え前の川で、青い川が付け替え後の今の大和川です。

河内平野を幾筋もにわかれて淀川に注いでいた大和川が現在の川の姿に付替えられたのは元禄が宝永と改元された1704年のことだそうです。それまで、洪水に苦しむ流域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、 最初に江戸幕府への願い出から付替えの実現までには50年近くの月日を要したそうです。その間にも幕府は何度か付替えの検分をしたのですが、新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止。 あちらを立てれば、こちらがたたずでしょうか。そのうち3年連続して河内平野がすべて泥海と化すような洪水があったことから 幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣工事を行います。しかし、この工事で淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋はいっこうに改善されないうえに、 河床には土砂が堆積して天井川になってしまいまったそうです。
この付替え促進派で終始運動の中心にあったのが代々の今米村(現在の東大阪市今米)の 庄屋に生まれた中甚兵衛で、同士の芝村・曽根三朗右衛門や吉田村の山中治郎兵衛の引退や死にもめげず、 最後はたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。 そして、ついに力量を認められ工事にも御用を仰せつかったそうです。