生駒山の麓の風景

昨日のTVニュースで大阪「箕面の滝」の水が少なくなってポンプであげていることについてとり上げていました。
箕面の滝は「日本の滝100選」のひとつで水量の多い滝としてしられていました。それが、約7キロの箕面トンネルを掘ったために大量の地下水がわきだし、地表の川が水枯れし、箕面の滝の水量が減ったそうです。
今は、滝の上流にポンプで地下水をくみ上げて水を流し、滝の水量を補給しているそうです。ポンプなどにお金が3000万円もかかっているとの報道がありました。私達は便利を求めるあまり自然破壊を進めていくしかないのかな?・・・て私自身が便利にたっぷりつかりながらそんなことを思う矛盾を感じました。
生駒山でも同じことがありました。近鉄電車のトンネルを掘っているとき山の上の家が陥没したニュースを、当時大阪市内に住んでいた私は他人事のように見聞きしていました。生駒山はかつて豊かな水が流れ「生駒七滝」には水車がまわっていたそうです。しかし、トンネル工事の後 生駒西麓は水が少なくなって滝も枯れてしまったそうです。
日下川も近畿鉄道会社から水をまわしてもらっているのです。
美味しい豆腐屋さんもなくなりました。水は暴れだすと手に負えないので その管理も大切ですが水がなくなると もっと困ることになります。水に恵まれた日本も 水資源を見直す時だと思いました。

生駒西麓もかつては滝が流れ 豊かな水の恩恵をうけて産業が発達したそうです。
中でも一番水車がたくさんあったのが辻子谷だったそうです。
辻子谷の水車を復元し ほたるも育てる活動をされている昭楠会さんがあります。
東大阪地域まちづくり活動助成金」をもらって活動の一部にあてられておられました。
 2004年11月3日に水車復元のお祝いがありました。私もお招きを受けて出席しました。
東大阪市郷土博物館であ6月5日から9月30日まで辻子谷の水車小屋で使用されたものなどが展示されます。
水車の講演会(6/17PM>2:00ー3:30)が郷土博物館であります。6/10には音川の水車跡見学もあります。



辻子谷は漢方薬を水車でつくっていたそうですが、豊浦谷の水車は伸線をつくっていたそうです。
針がねは、伸線といわれ、金属の塊にあけられた(各種あり)寸法の孔(手前は太く出口は細くした孔)の中に金属の線を通し、強い力で引き通して、太い線を細く引き伸ばしていくので、古くは水車の回転の力を使っていたそうです。それが、つまり伸線です。

大正時代に近鉄奈良線が開通し、その電気が周辺に利用されるようになって、水車工場のほとんどが電気のモーターに変わっていったといわれます。のちに細い針金だけではなく、太い金属棒を加工していろいろな製品を作る工場ができ、ねじや金型づくりが発達していったと聞きました。

豊浦谷の水車があったところが、枚岡です。枚岡から高井田までずっと伸線から発達した工場がひろがったそうです。

枚岡には元春日とよばれる枚岡神社があります。2月に観梅をした枚岡神社梅林の梅の収穫祭が6/3にあります。梅干つけたい人は参加されるといいでしょうね。800人ぐらいの参加者があるそうです。

2月の枚岡梅林風景

梅干にしますか、梅酒にしますか?



下谷胡粉を主につくっていたと聞きました。

下谷の日下新池と日下山



日下新池から西に少しくだったところに丹波神社があります。我が家が毎年新年を最初に迎える神社です。大阪西町奉行曽我丹波守古祐の墓碑が祀ってあります。この丹波守は日下村の水問題を解決した人として 村民から神として崇められたそうです。日下新池の南にある御所が池は溜池として丹波守がつくったものだそうです。


この丹波神社の裏手北には天子池とほたるの川として保全活動をしてきたオゼ川があります。2003年・孔舎衙中学1年生と一緒に調査したときのほたる川です。
http://ikoma.web.infoseek.co.jp/tyugaku10.html

今は 川の整備も終わり川もきれいになりました。しかし川の周辺には家々が立ち並び夜も街頭で明るくなり ほたるの川としては存続できるか難しくなりました。
近くに小さな「ほたる公園」ができました。当時の小中学生のデザインした石の彫刻が並んでいます。その奥に 「東大阪地域まちづくり活動助成金」でつくったビオトープとほたるの飼育施設があります。
源氏ホタルが成虫になって光っています。6月13日夕方8時から「ほたる鑑賞会」があります。この飼育施設で育ったほたるを見る会です。お近くの人は是非鑑賞してくださいと会長さんから連絡がありました。
 

ほたる公園とほたるの飼育施設



現在のほたる川




改修前のほたる川



当時私たちがイメージしていたほたるの川風景図

この図面に顔をつけあって あつい夢を語り合っていました。改修はしたくなかったのですが、配水管の工事をするので どうしても 川をさわらなければならなかったのです。川の守るための工事ではなく、生活のための工事が必須であって、ならば そのあとできるかぎり もとの川に近づけるための話し合いでした。