三栖閘門(みすこうもん)

豊臣秀吉伏見城築城の際に外堀として開削された濠川は、明治になって疏水とつながれたそうです。琵琶湖疎水の水流を鴨川運河から宇治川へと運んでいます。
伏見城と城下町を造ったとき、当時このあたりで最大の淡水湖だった巨椋池おぐらいけ)の中に大堤防を築き、宇治川の流れをかえて町の中に水を引き入れたそうです。
秀吉の死後、徳川家康は伏見の町を幕府の直轄地として強化し、今の淀川派流域は伏見浜と呼ばれ、明治維新後も京都・大阪・奈良の三都を結ぶ水運として利用され、伏見港は活気のある重要な地点だったそうです。蒸気船が就航していたときもあったそうです。
しかし、鉄道の発達とともに需要が低下、伏見港の埋め立てが決まったそうです。
2003年第3回世界水フォーラムの一環として「三栖閘門と伏見みなと広場」ができ、川の周辺の整備、資料館の創設を行うと共に、閘室に再び水を引き入れ「十石舟」の乗船場として復元されました。今回、三栖閘門資料館で伏見の港と川と水のことを興味深く学びました。











宇治川へ流れ込む濠川



閘門の上から見る宇治川





閘門の上から伏見桃山城の天守閣が見えました