生駒西麓の春景色

今頃、春景色を紹介するというのも なんだか気が引けますね。
5月7日の夜、知多半島にでかけるための用意をしているときのことでした。パンパンドーンと鳴り響く音で思い出しました。毎年5月8日は「東大阪市ふれあい祭り前夜祭の花火」があがります。http://www.fureai-matsuri.com/
大急ぎで 物干しに出て花火見学。花園ラグビー場の隣の公園であがる花火は 距離は遠くても街の灯りと重なってなかなかきれいでした。花園公園からあがる花火は東大阪市の春の風物詩のひとつです。

我が家の物干しからみた花火(5/7)















南に花火を見ながら 東に迫る生駒山、西に煌めく大阪市内の光も同時に眺めていました。
古のことに思いを馳せながら 生駒山の向こうの世界を想像したりもしました。
この花火を眺めている日下という処は大阪にあって山を越えた奈良の都を思う、そんな処です。
谷川健一氏の「白鳥伝説」の第1章は「ひのもと考」です。谷川氏の説明によると、
太安万侶が撰した古事記の序文に  「性(うぢ)に於きて日下(にちげ)を玖沙訶(くさか)と謂ひ、・・・・」とあるそうです。
古事記』中巻、神武東征の段に、東征軍の上陸した地点を「日下の盾津(たてつ)と云ふ」ともあるとか。
また、日下は日本書紀の神武即位前紀には、「河内国の草香邑(くさかむら)」と記されている。「草香津(くさかつ)」とも記されていることもあり、どうも船着き場であったことが分かる・・・と記されています。

河内の草香邑は今日の東大阪市日下町のあたり、そこは生駒山脈の西のふもとで、日下町の急な傾斜地が孔舎衙阪(くさかざか)である。日下町には貝塚が発見されている。
このあたりが水辺であったことが証明されるものに万葉集』第四に、
草香江の入江に求食る(あさる)葦鶴(あしたづ)のあなたづたづし友無しにして」という歌があります。
これは 葦の生えた草香江の光景の歌です。
「白鳥伝説」には「日下」という地名について 賀茂真淵本居宣長、吉田東吾、松岡静雄の各氏の考えが紹介されています。
西宮一民氏は「飛鳥の明日香」という枕詞としての使い方と同じように「日下(ひのした)の草香(くさか)」という表現をしています。
それに対して谷川氏は「ヒノシタ」ではなく「ヒノモト」の草香(くさか)が正しいと述べています。
日下は日が沈むところではなく太陽の昇るところであったとの説が述べられています。

確かに今でも太陽は草香山(くさかやま)から昇ります。
さらに この書を読み進めていくと 次の文章がありました。
外国人がわが国を呼ぶのに別の称号があった。それは「日下」という語である
1)中国では日下が日本国と同義に使用されていた。
2)日下というのは東方の日出る処という原義が日本国に適用されたのである。
3)日下を日本国の別称としたのは唐の玄宗の詩にみられる。
つまり、日下は日本国と同義語であったというのです。
「日下は 河内の草香ではなく、草香が日出る処という考えが生駒山脈から大阪湾沿岸一帯にあったからこそ日下という字をあてたにちがいない」とあります。
「ひのもと」の 日下は日本国のもとになった称号であったというのが谷川氏の説でしょうか?
草香山のすぐ北側に「日下の直越(ただごえ)の道」と思われる道があります。雄略帝が河内にいる皇后若日下部王(わかくさべのみこ)のところに通った道というのが『古事記』に記されているそうです。
そんな古の話を思いながら生駒山麓からの景色を眺めると、夜空に瞬く星さえも違ってみえたりします。

花火の翌日(5/8)西浦半島で撮った上弦の月です