生駒山の西麓にある丹波神社祭礼(名月祭)

 生駒山の西麓に位置する日下はほたるの飛び交う緑豊かな地であり、神話と古い歴史文化に育まれた由緒ある地域です。この日下の丹波神社は地域の自治会でお守りしている神社です。
 自治会でお守りする神社とは、珍しい神社ですが、そもそもは曽我丹波守古祐という大阪西奉行の旗本だった人の墓碑を祀っているところです。
 当時の日下村は、谷川の乏しい水に依存していたため、しばしば旱害をうけることがあったのですが、領主であった丹波守は丹波神社のすぐ南にある御所ケ池を改修し、用水を確保し旱害をなくした人として伝えられています。村人から神として崇められ、丹波守が亡くなった後は村人によって社に祀られてきた歴史がある神社です。
 日下村の領主であったとき、数々の善政を行った丹波守でしたが、丹波守もこの地が気に入って、奉行を息子に譲り隠居した後、日下村に住みついたほどです。
 当時この日下村には文化サロンのようなものがありました。そのサロンの中心は旧河澄家でした。
 現在、「旧河澄家」は東大阪市指定文化財として公開されています。この川澄家の棲鶴楼(せいかくろう)の庭園や鳴鶴園と呼ばれた旧森家の庭丹波守がつくったと伝えられています。
 生駒西麓きっての名家である河澄家は歌人国学者文人墨客の訪れることが多く、近世の文化サロンのようだったと想像できます。富田林の旧家杉山家のタカは明星派の歌人石上露子として活躍しましたが、露子の母は河澄家から杉山家に嫁いだ人です。
日下村には詩文にすぐれた旧森家出身の生駒山人」もいました。後の頼山陽に比肩する偉才であったと言われています。「生駒山人詩集」などの著書を残し、41歳の若さで亡くなったのですが、勤皇の志篤く、豪快不羈経世の大望を抱いていたそうです。日下山の麓に「生駒山人の墓」があります。
 またその頃、雨月物語」で知られる上田秋成が日下村の正法寺に寓居して「山霧記」を書いたと言われています。河澄家の常之という人は上田秋成に師事し、秋成の遺墨が河澄家の残されています。丹波守も明暦4年(1658年)河澄家で終焉しました。このように生駒西麓の片田舎に文化サロンがあったとはすごいことですね。
この文化サロンの主である丹波守を祀る丹波神社のお祭りも他の神社と異なった珍しいものです。風流を愛した丹波守のお祭りとあって中秋の名月の日(旧暦8月15日)に、大きな釜を中心に据え、秋の収穫物を供え、巫女神楽が奉納され「名月祭」が執り行われてきたのです。
今年は9月30日の十五夜お月さんの日にありました。しかし、仲秋の名月をめでるには程遠い 土砂降りの中で執り行われました。台風17号が接近している最中でした。

 

朝から自治会の人たち総出で祭りの準備







丹波守の祠この中に墓碑があるそうです





祭壇には秋の実りを供えます

















真ん中で釜を焚いて
























衣も髪もずぶぬれです





土砂ぶりの中での神楽奉納でした。私も地域の広報係として雨合羽を着ての写真撮影でした。