藤原京跡のコスモス畑
我が国で初めて首都として計画的に造られた都市が藤原京です。
藤原京に都が移ったのは持統8年(694年)で、この都づくりを計画したのは天武天皇です。 藤原京の名称は近代に作られた学術用語ということで、日本書紀では「新益都(しんやくのみやこ)(あらましのみやこ)」という表現で登場しているそうです。
藤原京は、日本が律令国家としての体裁を整えていく時代の都です。大宝元年(701)には大宝律令が完成し、政治のしくみが整備されるとともに、富本銭に続いて和同開珎が発行され、経済の仕組みも整っていったのですが、16年間という短い期間の都でした。
藤原京跡に立つと北に耳成山、東に香久山、西に畝傍山の大和三山が見えます。
これら三つの山が二等辺三角形を形成していることから、この山は自然の山なのか、人工的に造られた山なのかと、問題にされてきました。
秋になると藤原京跡はコスモスの花で埋め尽くされます。コスモスのの花の向こうに見える大和三山は新たなロマンをつくりだしているようでした。
「春過ぎて夏来るらし白妙の衣干したり天の香久山」新古今集 ・巻三・夏 持統天皇の歌です。
万葉集に「香久山は 畝傍を愛(を)しと 耳成と相争ひき神代より かくにあるらし 古昔も然にあれこそ うつせみも嬬を争ふらしき」と歌があります。
大和三山(の神)が神代に恋争いをしたという歌です。
中大兄皇子と弟の大海人皇子の額田王をめぐっての恋争いを大和三山に託したものという説もあり、一般には香久山と耳成山が男の神、畝傍山が女の神とされます。
しかし、なだらかな丘のような香久山が女性で、三角形の姿良い耳成山と畝傍山が男性に感じます。あるいは一番高いどっしりした山の畝傍山が女帝を表しているのでしょうか?