飯盛山麓の野崎観音さんに咲く 菜の花のように黄色いミモザ見物

 東海林太郎さんの歌う「野崎小唄」
「野崎まいりは 屋形船でまいろう どこを向いても 菜の花ざかり」の歌詞とメロディーが頭に残っています。いつどこで観たのか、聴いたのか定かではありませんが、きっと何度も聴いたのでしょうね。
 その歌詞にある「どこを向いても菜の花さかり」とまではいきませんが、野崎観音のミモザが咲いたと聞いて、久しぶりに16日に出かけました。
 野崎観音は私が住む生駒山麓の北方に5kmほどのところにあります。生駒山系のひとつ飯盛山麓にある福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)という禅宗のお寺で、1300年ほど前に建てられた歴史あるところです。
 江戸時代の中頃、庶民の間で社寺詣でが盛んになり出したそうです。お染久松をモデルにした、近松半二作の人形浄瑠璃「新版歌祭文」に野崎観音が登場(野崎村の段)すると一躍有名になり、人気を集めました。さらに、上方落語「野崎まいり」には、野崎観音に船でお参りする人と堤を歩いてお参りする人が互いに罵り合ったことが面白おかしく語られています。
「野崎参り」の屋形船はどこを通っていたのかと思いますが、近くに寝屋川が流れているので 大阪市内から寝屋川まで繋がっていたのでしょうね。
上方落語の「野崎参り」では、喜六・清八の二人連れは、大阪城の馬場をつっきって、京橋を渡って片町から寝屋川と鯰江川の間の堤を東に向かい、徳庵堤で舟に乗り込む、という設定になっているようです。
また、かつては八軒家から直接船に乗って大川に出て、片町から鯰江川に乗り入れることも可能だったようです。「野崎参り」の屋形船が通っていたと思われる鯰江川は、都市化の波に呑み込まれ、昭和のはじめ頃には悪水の水路へと変貌してきます。その頃から屋形船での野崎参りは消えて、歌だけが残っています。
  

菜の花のように黄色いミモザが門前にさいていました










ミモザの花は近づいてみると雪の結晶のような形をしています






















境内には近松半二作の人形浄瑠璃「新版歌祭文」の絵とお話が綴られていました。










お染久松物語
近松半二作「新版歌祭文」〜野崎村の段〜より

 ≪野崎村の久作には、養子の久松(ひさまつ)と、女房の連れ子のお光(おみつ)がいて、久作は気立ての優しいお光を、久松の嫁にしようとしていました。
 一方、久松は奉公に出た大阪の油問屋の娘、お染(おそめ)と知り合い恋に落ちます。しかし、それは許されない仲と、油問屋から帰されます。
 そこで、久作は早速久松とお光の祝言をあげることにしました。
久松のことを諦めきれないお染は、「野崎まいり」にかこつけて久松に会いに来ます。久松との関係に気付いたお光は、お染を追い返そうとし、久松と言い争いになります。養父への義理から別れ話を持ち出す久松をみて、お染は自害しようとします。お染をひとり死なせることはできないと、久松は二人で死のうと話します。事の成り行きをみていた久作に人の道に反していると諭され、二人は別れを誓うが、お互い心中の覚悟を決めていました。
 祝言の席でお光が綿帽子を取ると、髪を切り尼の姿になっていたのです。お光は二人の心を察し、自分が身を引けば、二人が幸せになれると考えました。そのことを知ったお染の母親お勝(おかつ)はお光に礼を述べ、二人の仲を認め、二人は油屋へ帰っていくことになします。二人の無事を祈り、その姿を見送りつつ、お光は泣き崩れてしまいます。≫す。
境内の裏にお染久松の碑がありました














野崎観音本堂