楠木正成の里を訪ねて・・・その1
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私のふるさと島根県の安来市のHPにリンクさせていただくことになりました。
ここに載っています*
龍泉寺と龍泉寺城
夏が終わり秋の風を感じる頃になると、もっと秋を感じたくて、私は生駒山を越えて奈良にでかけることが多くなります。大阪から奈良への道はたくさんありますが、平城宮跡、奈良市内へは阪奈道路のいろは坂を超えていきます。藤原京跡、明日香村へは南阪奈道路を通ります。
関西本線と並行して走る道、大和川沿いの道を通る時や西名阪道を利用する時もありますが、奈良への道は阪奈道路と南阪奈道路を主に利用しています。
南阪奈道路は竹内街道と並行してつくられた有料道路で「平成の竹内街道」ともいわれます。二上山に向かって走り、竹内トンネルを通り抜けると大和三山が浮かぶように現れてくる道は 何度通っても胸が高鳴ります。
「日本書紀」の推古21年(613)11月の条に、「難波より京にいたる大道を置く」と記されている、大道(だいどう)と呼ばれた道は、大和(奈良)と難波(大阪)を結ぶ官道で、我が国最古の国道だったともいわれます。竹内街道はこの大道と重なる所が多い道です。
さらに 私がよく利用する道は国道170号線です。大阪府高槻市を起点とし、大阪府泉佐野市を終点とする大阪府東部を縦断する国道で、外環(大阪外環状線)とよばれます。この外環を南へ走り、奈良への道の西名阪、南阪奈道路を横切り、さらに南へ走ると、富田林市と河内長野市があります。金剛山の麓にひろがる町は大阪の中でも豊かな自然が残る地域です。
千早赤坂村の棚田に行く途中に「龍泉寺」の案内板が目にとまり、その近くに楠正成が築いた龍泉寺城があったことを知りました。足利尊氏の命により細川顕氏に攻められて落城したあとに 今は富田林かんぽセンターが建っています。龍泉寺城の麓に平時の時に居館として使用していた龍泉寺がありました。
この龍泉寺は蘇我馬子が創建したとされていますが、保存状態が悪く荒れていました。境内の浄土式庭園は南北朝以前のもので、仁王門は鎌倉時代中期のもので国の名勝と重要文化財にしてされています。
重要文化財指定の八脚門は装飾も少なく簡素な門です。奈良時代の様式を取り入れた鎌倉時代中期創建とありました。
牛頭山龍泉寺は高野山真言宗のお寺です。
推古天皇二年(595)勅令によって蘇我馬子が創建。伝説によると、昔この地に古い池があり、悪い龍が棲み人々に被害を与えていたそうです。馬子が人々を救うために修法を行ったところ、悪霊は仏法の力に負けて飛び去りました。馬子は聖徳太子とともにこの地に寺を建て仏法の興隆に努めました。奈良時代後半には金堂、東西の塔、僧侶の住まいなどが存在したことが発掘調査の結果から推定されるそうです。
三つの島を浮かべた池泉です。弘法大師の法力で呼び出された龍王が一夜にしてつくったという伝説がある庭園は国指定名勝だそうですが、荒れ果てていて痛々しく思える程でした。
楠正成の首塚のある観心寺
富田林市の龍泉寺から少し南の山の中に入っていくと紅葉の名所としてしられる「観心寺」があります。10月27日に訪れた時はまだ紅葉が始まっていませんでした。
観心寺も高野山真言宗の寺院で、山号を檜尾山と称し、遺跡本山(ゆいせきほんざん)です。
左・楠正成像 右・正成が8歳から15歳まで通ったといわれる学問所跡
金堂の中には本尊の国宝の木造如意輪観音坐像が祀られています。保存がよく表面の彩色や文様もよく残っている魅力的な観音様です(4月17と18日の2日間のみ公開)。
楠木正成の首は、敵将足利尊氏の命によって観心寺に送り届けられ、大楠公首塚としてここに祀られています。
観心寺には後村上天皇6年間の行在所と桧尾稜もあり、観心寺と南北朝時代の天皇家とのつながりが残っています。
楠木一族は地元特産の水銀を売って経済的に力を蓄えた新興の地方豪族だったといわれます。悪党というのも荘園制度の崩壊が目立つ時代、河内地方の商業や輸送の利権をめぐって、これを独占しようとする幕府側と対立関係にあったことから呼ばれたという話を聞きました。文字どおりの悪党=悪人ではなく、豪族=強者という意味なのでしょうね。