楠正成の首塚のある観心寺

富田林市の龍泉寺から少し南の山の中に入っていくと紅葉の名所としてしられる「観心寺」があります。10月27日に訪れた時はまだ紅葉が始まっていませんでした。
観心寺高野山真言宗の寺院で、山号を檜尾山と称し、遺跡本山(ゆいせきほんざん)です。












左・楠正成像  右・正成が8歳から15歳まで通ったといわれる学問所跡
国宝の金堂





金堂(国宝)は 南北朝時代の建立。和様と禅宗様が混在している「折衷様」建築の代表作です。
金堂の中には本尊の国宝の木造如意輪観音坐像が祀られています。保存がよく表面の彩色や文様もよく残っている魅力的な観音様です(4月17と18日の2日間のみ公開)。
左・国宝の建掛塔 右・正成公の首塚







建掛塔は三重の塔を建立するつもりだったのが、楠木正成湊川にて討死のため 未完成のままで今に残っています。
楠木正成の首は、敵将足利尊氏の命によって観心寺に送り届けられ、大楠公首塚としてここに祀られています。







後村上天皇桧尾稜

観心寺には後村上天皇6年間の行在所と桧尾稜もあり、観心寺南北朝時代天皇家とのつながりが残っています。 






大阪・千早赤阪村の山里に生まれ、金剛山一帯を本拠地とする武将楠正成の足跡は奈良県側の金剛山葛城山の麓にもたくさんあります。葛城古道の一言主神社から千早赤坂村へ続く道は思いのほか近くて楠正成が上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦することも可能だったこともうかがい知れます。大阪側の道が封鎖されても和歌山や奈良から物資を運ぶこともできたであろうと思われます。悪党と呼ばれた正成ですが、前半生は不明なところが多いそうです。
楠木一族は地元特産の水銀を売って経済的に力を蓄えた新興の地方豪族だったといわれます。悪党というのも荘園制度の崩壊が目立つ時代、河内地方の商業や輸送の利権をめぐって、これを独占しようとする幕府側と対立関係にあったことから呼ばれたという話を聞きました。文字どおりの悪党=悪人ではなく、豪族=強者という意味なのでしょうね。