「竹取物語」のかぐや姫が住んでいた讃岐神社

「新家長福寺」からほんの少し歩くと「讃岐神社」があります。
神名帳考証』に讃岐国と関係が深い祭神である景行天皇の皇子五十香足彦命を祭ると記されているそうです。
竹取物語の舞台は讃岐神社周辺であるとされていて、かぐや姫に求婚する五人の貴公子の名は壬申の乱(672)で活躍した実在の人物であり、かぐや姫の館に求婚のために通った記事から、竹取物語の舞台は大和国広瀬郡散吉郷(現広陵町三吉)であるとされていると説明がありました。
四国の讃岐の一族が大和朝廷に仕えるため、竹の豊富なこの地に移りすんだことから讃岐神社とされているそうです。
 広陵町竹取物語のページ には「かぐや姫」のお話が詳しく説明されています。

かぐや姫の讃岐神社は今はすっかり荒れ果てて・・・








竹取物語』には、かぐや姫に求婚する五人の求婚者が出てきます。
 平安・鎌倉・室町・江戸時代には、平安時代初期に書かれた『竹取物語』を真似して書かれた類似本がたくさんでてきたそうです。
しかし、五人の求婚者の官職・名前がはっきり書かれているのは、『竹取物語』だけだそうです。
加納諸平という学者が江戸時代末期に『竹取物語考』と言う本で 求婚者の 石作皇子・車持皇子・右大臣阿倍御主人・大納言大伴御行中納言石上麻呂足は 奈良時代の「壬申の乱」に関係のある人物の名前であると実証しているとありました。
さらに、広陵町の説明では次のような文章が印象に残りました。

讃岐神社を出て、竹取公園の方へ歩いて行きますと、『竹取物語』の中で、かぐや姫の名付け親となった「みむろとの いんべの あきた」が住んでいたという「みむろ丘」が、馬見丘陵の彼方に夕陽にかすんで見えます。
復元された三吉石塚古墳の上に立って、真っ赤な夕陽が二上山に沈むのを見ていると、竹やぶの中から竹取の翁とかぐや姫が出てくるような幻想におそわれます。