「生きることは生涯かけて学ぶこと」を今になって知ったと語る人

美山のバス停




美山へは車で行くと道がいいのでそれほど大変なところと思いませんでした。ところが車がないとバスを何度も乗り継いでJRの駅に行く方法しかありません。行きは京都駅から車に乗せてもらうことができましたが 帰りは私一人です。三脚とカメラバックと宿泊バックとかなりな荷物がありました。バス停までバックパックと三脚バックとキャリーバッグで移動するのは大変です。通る人もみあたらない道をゴロゴロ、トボトボ歩いている姿を見かけた人が声をかけてこられました。82歳の男の方でした。
82歳とは思えぬほどお元気でした。
「写真撮影かい?」
「どこまで帰るのか?」
大野さんという82歳の男性は 京都の息子さんの家に行くからと私を京都まで案内してくださいました。
美山から京都までの道中 大野さんは自分の生い立ちについて 見知らぬ私にいろいろ語られるのです。
2時間弱に凝縮された大野さんの歴史はずっしりと私に覆いかぶさってくるようでした。
「もう、ワシはそんなに長く生きておらんと思う。カミさんは5年前に膵臓癌で亡くなったので 美山でひとりで暮らしている」
「先が短いワシは『生きることは生涯かけて学ぶこと』と知った。そして生涯かけて学ぶことは『いかに死ぬことか』と思う」という話だったと思います。
16歳のとき大阪の福島で空襲にあったときの話は生々しくて怖いほどでした。
昭和20年、聖天さんの近くに住んでいたが空襲がはじまると火は走るように速く進むのでので、病気の母を川の土手まで連れていくのがやっとだった。熱くて防火のために掘られた穴に逃げたものは土手に生えた苔で上がれず水死。焼け死んだ人の死体はしばらく放置されたままでウジがわいていた。

家を失い、母親の里の美山で暮らすことになった。大工だった父が家を建ててやっと美山で落ち着いたかと思う頃、今度は水害で家が流されてしまった。
「生きて入いる間に火責め、水責めにあったので 極道してきたワシでも閻魔さんは許してくれるだろうか?」と語られた。
大野さんには「悔いても悔やみきれないことがある」そうです。
戦後65年。日本は金銭的には豊かになったが 人の気持ちがささくれだっているように感じる。無我夢中で走ってきたが 走ってきた道は間違っていなかったか心配だと。

京都駅までの間 ずっと昔からの知り合いだったように いろんな話をしていましたが、京都駅に着くと特別挨拶もかわさずさっと別れてしまいました。私のお礼も伝えぬまま大野さんの「じゃー」の一言だけで別れました。
<『生きることは生涯かけて学ぶこと』そして生涯かけて学ぶことは『いかに死ぬことか』>という言葉を宿題のように重くを感じています。