聖武天皇の新しい都「恭仁宮」と「当尾の里」

京都府賀茂町にある「当尾の里」は奈良の都から逃れた僧や官人達が寺を建て、草庵を結んだところ・・・・とありました。
当尾の里は聖武天皇の里でもありました。
恭仁京」での聖武天皇は、741年『国分寺の詔』を発して全国に国分寺国分尼寺を建てさせました。国分寺の総本山は有名な東大寺で、国分尼寺の総本山は平城宮のすぐ近くにある法華寺です。法華寺聖武天皇の后の光明皇后が住まいとしたところだそうです。そしてこのとき聖武天皇の相談役だったのが行基であったといわれています。

そこで、「なぞなぞ」の登場です。
なぞなぞ8 聖武天皇はなぜ片田舎のみかのはらに都(恭仁宮)をつくったの?

なぞなぞ9 聖武天皇はなぜ都をあちこちに移していくの?彷徨の帝といわれるようになったのはなぜ?


なぞなぞの答えは 難しいですが、元明天皇の710年に平城京に都が移り、そのあと、元正天皇から聖武天皇に変わっていきました。この時期、有名な『長屋王の変』『広嗣の乱』や疫病などにより朝廷は不安定だったようです。そんなことが(740年)都を恭仁京に移すことになったわけのひとつと推測します。
「なぞなぞの旅」をして「みかのはら」「当尾の里」歩いてみてここに仏の理想郷を造ろうとした聖武天皇に思いをはせるのも旅の楽しみと感じました。

聖武天皇は4年弱の「恭仁京」から743〜4年には都を紫香楽宮信楽市)と難波宮(大坂市)に移します。紫香楽宮では743年『盧遮那大仏造立の詔』を発して、東大寺大仏さんが造られることになったそうです。そして745年造りかけの大仏さんと共に、再び平城京に戻ることになったそうです。

毎年5月2日には東大寺では聖武天皇祭」がとりおこなわれています。